自分探しの記録① 両親が離婚した子供は不幸か?

自らの原点を探る過程を、記事にまとめて行きたいと思います。公開する必要はないとも考えましたが、読まれる第3者を意識することによって自分自身の考えを明確にまとめやすくなるという意図と、これを読んだ人自身の何かしらの気付きに繋がるかもしれないという思いと、ほんのちょっと、誰かに知ってもらいたいという思いから、公開しようと思います。

相当長くなりそうなため、いくつかの記事に分けていく方針です。

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自分自身のこと

私は小学生低学年の頃両親が離婚して以来、母子家庭で育ってきました。離婚と同時期には学校でいじめを受け、保健室登校も経験しました。これらの経験は自分の人格形成を考える上で非常に重要な出来事だと思われるため、真剣に分析してみようと思います。

記憶を探る

幼少期の記憶を思い起こしてみても、保育園以前のことはほとんど覚えていません。なんとなく断片的な映像としての記憶はぼんやりありますが(保育園の砂場から見た園舎のかたち、とか)、はっきりとした出来事としての記憶は、小学校に入った頃からのものがほとんどです。

 わたしには母と父、12歳年上の姉、10歳年上の兄がいました。

父と母

 思い返すと、私が小学校に入る頃には、両親の仲はすでに壊れかけていたように思います。父、母どちらかと過ごした記憶はあっても、両親と3人で、又は兄弟も入れてみんなで何かをしたという記憶は、ほとんど残っていません。(多少はあったと思いますが)

 離婚の原因は主に父親の暴力(母に対する)です。父はわたしのことは溺愛していましたが、母や姉、兄に対しては違いました。今にして思うと、家族関係がうまくいかないなかで生まれた、年の離れた末っ子ですから、可愛がるにはちょうど良かったのでしょう。

父との記憶として最も鮮明に覚えているのは、公園で野球の真似事をして遊んだことです。当時は週末になると近所の公園に父と出かけ、ゴム製のボールとプラスチックのバットで野球ごっこをして遊びました。いつも私がバッターで、父がピッチャーです。とは言っても、投げたボールを打つのは怖かったので、地面をコロコロっと転がしてもらって、それを打つ、という遊びでした。父にとっては退屈な遊びだったと思いますが、いつも付き合ってくれました。遊び終わると決まって近くの自動販売機でマックスコーヒーを買ってくれました。(関東限定のあっまーい缶コーヒー)

当時の私は、この時間をとても楽しみにしていたように思います。30歳を超えても覚えているのですから、きっと楽しかったのでしょう。父にとっても、幼く無邪気な私と遊ぶ時間は、ある意味貴重だったのかもしれません。

ある時父が「ファミコンを買ってあげる」と言い出し、私は大喜びをしたことがあります。当時の子供にとってファミコンは夢のおもちゃでしたから、とても嬉しかったのです。そして父は「お母さんに買っていいか聞いてごらん」と言いました。嬉々として母のところへ行くと、母は「ファミコンはお仕事を頑張っている大人が、息抜きのためにやるものだから、我慢しなさい」と言いました。(文脈は多少違うかもしれません)言われた私は、駄々をこねたと思いますが、最終的には泣く泣く我慢することを決めました。泣きながら「我慢する」と言った私を、母は抱きしめてくれました。

 今考えると父が思いつきで言ったことを、母がたしなめるような構図で、両親間のコミュニケーション不足によるしわ寄せが子供に影響を与える典型的なパターンです。

どうしてこの出来事を鮮明に覚えているのかわかりませんが、当時の自分の胸に強く刻まれました。当時の私は、父の事も、母の事も同様に好きだったのだと思います。

 同じ頃の記憶として、夜2階の寝室で寝ている時にしばしば下から聞こえてくる両親の言い争う声の記憶があります。声だけで止まればマシで、時に大きな物音(何かを投げる・叩きつけるような)が聞こえる事もありました。

何を言い争っているのか言葉は聞き取れませんでしたが、とにかくそれが聞こえてくると胸が苦しく、辛かった事を覚えています。その頃から家族の異変を察知した私は、両親に対してある種の気を使って接するようになっていきました。

いじめ

 ちょうど同じ頃小1から小2にかけて、私は学校でクラスメイトによるいじめを経験しました。内容としては、顔に唾を掛けられる、教科書を鉛筆で黒く塗りつぶされる、鉛筆を真っ二つに折られる、などです。小学1年生のいじめにしては酷いレベルかと思いますが、先生も、他のクラスメイトも助けてはくれませんでした。先生に関しては、いじめに気づいていなかったのかもしれません。休み時間になると私は机に伏して、時間が過ぎるのをただただ待っていたものです。

いじめの中心人物は、体の大きいガキ大将的な1人と、彼にいつもくっついている小柄なもう1人という、いかにもジャイアンとスネ夫の様な2人でした。(今となっては名前も覚えていません)

学校でいじめが続いても、私は親に打ち明けませんでした。なぜそうしなかったかはっきりとは覚えていませんが、両親が大変な時に迷惑をかけられない、という種類の思いがあったのだと思います。

“MEMO”
※ この頃の経験から、私は“自分の感情(とりわけマイナスの感情)を人に打ち明けることは悪いことだ”という考えに囚われてしまった様に思います。そこから、“自分には(自分の考えには)価値がない”という考え方に発展してしまいます。

 しかしながら6歳の子供がそんな状況に耐えられるはずもなく、すぐに異常が現れました。

夜驚症

 異常その一です。夜驚症については以下

夜驚症(やきょうしょう)とは、睡眠中に突然起き出し、叫び声をあげるなどの恐怖様症状を示す症状のことである[1][2]

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%A9%9A%E7%97%87

 本人に自覚はありませんが、とにかく泣き叫び、何かから逃げるように走り回ります。母がどんなに声を掛けようとも声は聞こえていない様子で、治るのをただ待つしかありません。

 幼稚園〜小学校低学年くらいまでの子供にまれに見られる症状で、脳の発達に伴って起こるらしいです。悪夢を見ることに関係がある様で、日常のストレスが要因にもなりうるのだと思います。

今にして思うと、6歳児なりのSOS信号でした。

登校拒否

もう1つの異常、それは登校拒否です。いじめが常態化するに伴い、当たり前ですが“学校に行きたくない”と思うようになりました。いじめに対する恐怖、父と母の不仲に対する恐怖が、そのまま母のそばを離れることへの恐怖として現れました。

朝になると学校に行きたくない、と駄々をこねる私に、母は困惑したと思いますが、それでも、何が何でも学校に行かせようとしました。嫌がる私を無理やり車に乗せ、学校まで連れて行きます。学校に着いても、母が居なくなると不安で不安で押しつぶされそうになる私は、なんとか母の元を離れない様にしがみつきます。母はしばしば、仕方なく教室まで一緒に入って、1時間目の授業が始まるまで教室の後ろに立っていてくれました。私は席についてもこまめに後ろを振り返り、母がいる事を確認します。

 とはいえ母も仕事に行かなくてはなりません。担任の先生がタイミングを見計らって母に目配せで合図をし、その隙に母は教室を後にします。

 あるとき、後ろを振り返って母の不在に気づいた私は、半ばパニック状態になって教室を飛び出し、昇降口で靴を履いていた母を見つけ、「行かないで、行かないで」と泣きつきました。

辛い、苦しい、悲しい、寂しい、怖ろしい・・ありとあらゆるマイナスの感情を、私はこの時代に学びました。この頃の私の人生は、苦しいことでいっぱいでした。

いじめの発覚

なんとか必死に耐えてやり過ごしていたいじめですが、ついに限界が訪れました。ある日の休み時間、校庭にあった遊具のあたりにいた私は、いつものように例の2人組からちょっかいを出されていました。

体を小突くようなことをしつこく繰り返されていたように記憶しています。私は顔をかがめて手で覆い、必死でバランスを崩さないように耐えていましたが、もはや限界でした。いわゆる“キレる”というやつです。

最後の一突きをされた瞬間、私は物凄い雄叫びを上げ、絶叫しながら2人に抵抗しました。両腕を力任せに振り回して、それが何度か彼らの身体に当たりました。2人は心の底から驚いた、と言った表情でした。

その後どういう流れになったかは記憶が曖昧ですが、このことがきっかけで私へのいじめは発覚しました。母親も学校からの連絡で始めていじめのことを知りました。

当事者である私といじめっ子の2人、それぞれの親、そして担任が同席の場で私は2人から謝罪を受けました。それ以来、2人は別人のように大人しくなり、私へのいじめはなくなりました。

私の中には不思議と、いじめっ子2人に対する怒り、憎しみなどは無かったと思います。それよりもむしろ、もっと大きなもの、学校そのものとか社会そのもの、とかいったものに対する憤り、不信感が芽生えていました。

いじめが終わり、これでまた学校に行けるようになる、と普通の人は考えるでしょう。NHKの朝ドラだったらそうかもしれません。しかしながら、人の心はそんなに単純には出来ていません。

人の心は修理できない

いじめが終わっても、私の心の中にある不安、恐怖は消えませんでした。あいかわらず学校に行きたがらず、母が無理やり連れて行く毎日です。

当時の私にとっては辛く、苦しいことが当たり前でした。それが自分の人生だったと言っても過言ではないと思います。家では両親に気を使い、学校ではいじめられていたわけですから、当然です。そんな私は、“普通の教室”の中に自分の居場所を見出せませんでした。

人は、集団の中で自分が築いた居場所に固執します。優等生という居場所、劣等生という居場所、運動が得意、という居場所。学校にはさまざまな形で自分の居場所を見つける生徒たちがいますが、私の場合は“いじめられ、1人でもがき苦しんでいる”ということこそが自分の居場所でした。ですから、いきなりいじめが終わって「もう大丈夫だよ」と言われたところで、どうしたら良いのか分かりません。

私にとって“普通の教室”は、いじめられることと同じくらい辛く、怖ろしいものでした。この感覚は、経験した人でないと理解しにくいかもしれません。人の心は、機械を修理するようにはいかないのです。

私は、普通の人が当たり前に持っている「自分自身への信頼感」「家族への信頼感」「社会への信頼感」といった、所謂“自己肯定感”に繋がる最も基本的な感情をすっかり失ってしまいました。現在だったら明らかに専門家による対処(治療?)が必要な事案だと思いますが、当時はカウンセリングなども一般的ではなかったこともあり、私は自分の力で無理矢理解決してしまったのです。この時失ったものの大きさは、大人になった今、痛いほど実感しています。

私は問題の自己解決と引き換えに、自分自身の価値を認められず、身の回りの人々、社会(学校)を信頼できなくなってしまいました。

保健室登校

毎朝イヤイヤ大騒ぎで学校に来る私に、転機が訪れました。当時保健室の養護教諭だったS先生が、声を掛けてくれたのです。「教室が嫌なら、保健室に来てみる?」

母によると、私は意外にもすんなりその提案を受け入れ、自ら保健室に入ったそうです。当時の私にとっての世の中は、家と教室が全てでしたから、新しい世界である保健室という場所に、何らかの希望めいたものを感じたのかもしれません。

保健室には、保健のS先生の他に、私と同じように教室に入れなくなってしまった女の子がいました。私より3つか4つくらい年上で、毎日学校に来ると直接保健室に来て、そこで放課後まで過ごしていました。確か“のんちゃん”とか、そんな名前で呼ばれていたような気がします。

それから、私の保健室登校が始まりました。保健室では、のんちゃんと一緒に勉強をしたり本を読んだり、折り紙を教えてもらったり、トランプをして遊んだり、レゴブロックのようなものをいじくって遊んだりしました。それらの経験は、私が学校で感じた頃のなかった“楽しい”“嬉しい”“面白い”といったプラスの感情をもたらしてくれました。

S先生は優しく、私たちが保健室にいることを当たり前に認め、いつでも私たち自身の意思を尊重してくれました。教室に行きたくなければ行かなくていい。ちょっと行けるかな、思ったら、行ってもいい。S先生は教室にいきなさい、とか行ったほうがいい、とかいう言葉を一度も口にしませんでした。

S先生は私にとって、家族以外で始めて信頼できる大人でした。先生と出会ってからの私にとって、保健室こそが自分の居場所でした。

次第に私は1人で学校に行けるようになり、教室に入れる時間も少しづつ出てきました。(給食だけ教室で食べる、とか午後から教室に行くとか)ダメなら保健室に戻ればいい、という安心感が、私を後押ししてくれました。 

保健室登校はその後、小学4年くらいまで続きました。

両親の離婚

私が保健室登校するようになってから程なくして、両親が離婚しました。(確か小学2年?)離婚に際し母は大いに悩んだようですが、S先生の「子供はわかってないようで全部わかってる。変に隠そうとしないで、子供の意見も聞いてみるべき」というアドバイスもあって、私に意見を求めたそうです。「お父さんとお母さんのことどう思う?」と。

この時の記憶は私にはあまり残っていないのですが、母いわく「お父さんとお母さんは別々に暮らした方がいいと思う」と言ったそうです。そして「お母さんに何かあったら、僕が守ってあげる」と。私のこの言葉がきっかけとなり、離婚を決断したそうです。

この時の話をするとき母は誇らしげに、どこか嬉しそうに話しますが、それを聞くたびに“子供にそんなことを言わせる子育てはしてはいけない”と私は思っていました。子供ができた今、その思いはより強くなっています。

離婚を決意した母は、詳細を協議することなく強行しました。詳しいことは分かりませんが、結果として父からは1円の慰謝料も貰わず、私を含め3人の子供全員を引き取る形で離婚しました。母としては、決意したからにはもう細かいことは考えず、前を向いて行きたい、という気持ちだったのだと思います。しかしながら3人の子供を引き取る以上、最低限慰謝料の協議くらいはすべきだったと思います。

両親が離婚するにあたって、私自身がどのように感じていたのか、不思議なことにあまり覚えていません。もしかすると、自分の居場所としての保健室の存在が大きく、そこに関心が移りつつあったのかもしれません。

その時点で我が家は安心できる場所、ではなくなっていましたから、最早離婚しようがなんだろうがどうでもいい、という境地だったのかもしれません。このあたりも、経験していない人には理解しがたいことかもしれません。

一度この辺りで区切ることにします。

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