人生の意味を追い求める

自分はどこから来たのか?

 子育てで子供と接するにつけ、考えることがあります。それは、「“自分”ってなんだろう?」という問いについてです。

 これまでの人生なんとなく生きてきた自分にとって、子供と向き合うことは即ち自分自身と向き合うことに他なりませんでした。子供に向き合う時、そこには圧倒的なまでの主体性が求められます。

 そのためには、なんとなく生きてきた自分の人生に、意味を見出す必要があるのです。それまで自分は、「1つの考え方に固執せず、柔軟に物事を捉える」という性格が自分の個性だと考えていました。しかしながら、その実態は「なんでもいいや」の人ごと状態だった様に思うのです。

 とくにこだわりもなくなんでもいいや、という姿勢は、見方によっては長所のように思えます。人とぶつかることは少ないし、集団の中で空気を読むこともできます。でもそれが子育てになると、そうはいかなくなってしまいました。

柔軟に思考する態度と、なんでもいいやという態度は、意味が違うようなのです。

MEMO
柔軟な思考 ≠ なんでもいい

「なんでもいいや」 では子育てができない

 これといった考えがなく、なんでもいいやの姿勢だと、子供に対してなにも出来ないということに気がつきました。例えば子供に何かを教え、諭すとき。子供の行いを叱るとき。

「どうしてこうなの?」「なんでいけないの?」

という子供の素朴な疑問に答えられないのです。どうして毎日お風呂に入らなければならないのか、どうしてご飯の前にお菓子を食べてはいけないのか、どうしていつまでもTVを観ていてはいけないのか・・・

考えれば考えるほど、分からなくなります。分からないので、自分自身を顧みることにします。風呂には毎日入るけど、たまに面倒で入らないこともある、お菓子を変なタイミングで食べちゃうこともある、夜ぼーっと何時間も映画やTVを見ることがある・・・

ここで自分自身のなんでもいいやが露呈するのです。なんとなく常識だから、とか昔からそうしてたから、といった理由でなんとなく受け入れていることが数え切れないほどあるのです。そういう一つ一つに「なんで?」と疑問を唱えてみると、次から次に新たな「なんで?」が生まれてきます。

「なんでご飯の前にお菓子を食べてはいけないの?」

「そもそもなんで食事は朝昼晩の3回なの?」

「ご飯とお菓子ってどうやって区別するの?」

という具合です。

“自分”を探す

 これらの「なんで?」に対する答えを探すためには、自分自身を見出す必要があります。数学の問題と違って誰にでも通用する正解がある話ではないので、自分なりの答えを導き出さなければなりません。

自分なりの答えを得るために必要なものは、”自分“です。自分はどこから来て、どこへ行くのか。何のために生きているのか。これまでの人生にはどんな意味があったのか。これからの人生では、何を見出すのか。そんな疑問から逃げずに向き合わないと、子供とも向き合えないようです。

自分探しの旅、とか自分を見失ってる、とかいう言葉がありますが、今になってようやく意味が分かる気がします。

永遠普遍のテーマ ”自己の探求“

 息子を通じて自分自身を見つめた結果、今まで気にも止めてなかった疑問にぶつかりました。まだ3歳の小さな息子ですが、父である私にとても大切なことを教えてくれたように思います。

自分自身を知る、つまり”自己の探求“が哲学の普遍的なテーマであり続ける理由が、今わかりました。これからも、息子を見つめ、自分を見つめて生きていこうと思いました。

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